こんな運命が待ち受けているとも知らず・・・。
Chiekoは和歌山県海南市というところに生まれた。巽村といって本当に片田舎であった。
後に材木屋となったのだが、当時は棕櫚問屋をしている家で、番頭さんや丁稚、
お手伝いさんなどもいる家だった。
ここにいるChiekoの母は、当時ごっさんと呼ばれ、兄は坊ちゃん、姉はいとさんだった。
Chiekoが生まれたころはすでに商売は傾きかけ、使用人も少なくなり、最後は破産
状態となり、兄姉には坊ちゃんいとちゃんの呼び名も、私にはなかった。
当時はまだまだ敗戦の名残があり、私はただ不自由で貧しい生活しか思い出
せない。教材が買えなかったり、破れた番傘しかなくて雨が降ると学校に行き
たくなかったり、友達が持っている油絵の具のセットがうらやましかったり、もって
行くお金がないこともあった。そういえばお金がないとは言えず、何かくそ理屈を
つけて、修学旅行に行かなかったこともあった。
両親が教育熱心だったこともあり、Chiekoは大学に行くことができたが、それも貧しい中で、
毎日がアルバイトの日々であった。
在学中から高校の同級生であった後に夫になる柳谷晏秀と付き合い始める。彼は
大阪大学の法学部の学生になっていた。
彼との長い連れ合いの人生については、拙著「グラデュエイトフロム」にエッセイ風に
上載している。
夫柳谷晏秀は56才にして1997年早逝、その後Chiekoはカナダに思いつきで移住。
1999年にアーティストとして永住権を得る。
Chiekoの経歴
Chiekoは万年あすなろうであった。
いまもなお、明日を夢見てはばからない
和歌山県海南市に生まれる | |
同志社大学文学部社会学科社会福祉学専攻入学 | |
横河橋梁大阪支店入社。 | |
高校の同級生であった柳谷晏秀と結婚。 | |
1970 油彩、木工などを始める。 | |
1982 小説を書き始める。 | |
1986 自由都市文学賞佳作、織田作之助賞候補、婦人公論女流新人賞候補 | |
1992 朝日新人文学賞候補。 | |
1997 柳谷晏秀急逝。Canadaに移住を決意。 | |
1998 Canada Greater Vancouver Coquitlam Cityの現住所に移住。 | |
日本在住中、油彩、木工などの個展七回 | |
2002 第七回柳谷千恵子油絵小品展 in Japan | |
2002 CHI ENTERPRISES LTD 設立 Artists Retreat B&B Clffrose 亭. GalleryCliffrose 発足 |
|
2004 第八回柳谷千恵子小品展開催 |
1999.8 母は旅立った。